『魔都夜曲』(一)*ラ・ラ・ランド上海――軍服と麗人と笑顔と

※注意【ネタバレしています】

シアターコクーンで『魔都夜曲』が上演中です。

キューブ20周年の記念作品らしく、所属の役者さんたちが勢ぞろい。さらに、外部からの応援もあり、壮さんが「鼻血が出そうな人たちばかり」と言ったくらい(笑)、花も実もある役者さんばかり。それぞれに見どころが用意されていい、退屈する時間などないお祭り的な娯楽作に仕上がっています。

舞台は、1939年(昭和14年)、第二次世界大戦前夜の中国・上海。魔の棲む都――「魔都」と呼ばれた、退廃と怨念が立ち籠めた時代に生きた人々を、日本の貴公子、白河清隆(藤木直人)と、中国人と日本人の間に生まれた女性、紅花(フォンファ)(マイコ)との恋物語を主軸にして描いたもの。「音楽“劇”」というからには、もっと物語に厚みがほしかったし、闇の部分にも踏み込んでもらいたかったけれど、そこは観た人の劇を読む力にゆだね、最後はひとまずの形でハッピーエンドを迎えます。

この戯曲なら、正直、ミュージカルにするか、ソングナンバーにオリジナルを増やしたほうが座りがよかっただろうとは思いました(あるいは宝塚歌劇か(笑))。けれど、限られたセリフで、あの時代の上海にいた、訳ありな人たちをきちんと描いているのはさすがだったし、まあ、ミュージカルにしたら、歌合戦になっちゃいますからね。舞台裏の事情を読みすぎるのは無粋だけれど、俳優、ミュージカル俳優、ミュージシャン、アイドルと、さまざまなアーティストをそろえるキューブという事務所の立ち位置を示すという意味でも、ミュージカルではなく「音楽劇」である必要があったのでしょう。

あえてハッピーなエンディングにしたのも、キューブのエンターテインメントに対する意思を示したものとも考えられます。そもそも、登場人物たちのその先にハッピーが待っているわけではないことは、歴史を思い出せば、最初から分かっていること。戯曲を書いたマキノノゾミは、リアルな劇にも、重く暗い劇にもせず、映画の『ラ・ラ・ランド』よろしく、舞台の魔法を振りかけて、ハッピーな気分のまま、幕を下ろさせました。いまの日本や世界に、あの時代、大戦前夜の上海と同じく、戦争の影がたちこめているからこその、「非戦」のメッセージであるのかもしれません。

例えば、ジャズクラブ「ル・パシフィーク」の支配人、新田日出夫(橋本さとし)は、劇中、こんな言葉を発します。

「ここに来るお客さんには上機嫌でいてほしい」

「この店にいる間は笑っていてほしい」

このジャズクラブは、「楽園(ル・パラディ)」でもあり、「劇場」でもあるのでしょう。

上海に住みついた日本人医師(村井國夫)も、「戦争なんか、くだらない連中がいばり散らしてるだけだ」なんて、小津安二郎みたいなことを言ってのけます。小津が日常を舞台にした映画を撮り続けたように、ハッピーエンドの物語とすることで、戦争に対するノーを示しているのじゃないかなあ。

ネタバレになっちゃいますけど、劇中、しかつめらしい顔をした帝国日本軍人たちが、軍人ソング「可愛いスーちゃん」を歌わせられる場面なんか、まさにそれでしょう。この歌が歌われているときのいたたまれなさは、日本に生きる者として心にとめておかなくてはならないものだと思います。

それはそれとして、あの場面の壮さんです!

いつもは男装をしている川島芳子(壮一帆)が、最高にゴージャスで妖艶なチャイナドレスをまとって、いばり散らした帝国日本軍人たちを辱める小気味よさったら!(そして、ああいうふるまいをする壮さんの輝き!) 日本の軍人たちに踏みにじられた、女性や中国人たちにかわって、芳子がささやかな復讐をしているように思えます。

壮さんの川島芳子。観る前から似合うだろうとは思っていたけど、ここまで美丈夫で色気のある芳子になっていようとは。

物語の主旋律はあくまでも白河清隆とフォンファの恋物語なので、場面は多くはないけれど、どの場面のどんな小さな仕草も、芳子の行動や心のうちと結びついたもので、最後には胸のすくような見せ場が用意されていました。川島芳子、甘粕正彦、李香蘭といった実在する人物はもちろん、劇中に登場するすべての登場人物が、名前は残っていなくても、あの時代を生きた歴史上の人物です。そして、誰もが、戦争に疑問を持っている。あの時代を生きた人々に、マキノノゾミさんが特別な思い入れを持っているのではと感じました。でも、タカラヅカの外では当たり前のことかな。

そんな時代に生きた川島芳子を、壮さんは舞台上で微細に表現していたと思います。

観る前に懸念していたのは、世間の人たちがイメージするところの「宝塚の男役っぽい」川島芳子になってしまわないかということでした。

タカラヅカの男役がバラエティ番組などで面白おかしくやってみせるような、誇張した男役の型で演じてしまったら、それこそ浮いてしまうし、「宝塚だねえ」で終わってしまう。壮さんのインタビューなどを見ても、そのあたりに苦心したようだけれど、男役でも、記号としての川島芳子ではなく、『魔都夜曲』の中の「男装の麗人」川島芳子として、そこにいたと思います。

それにはまず、見た目の説得力、芳子の衣装が似合うことが必要。スーツ、軍服、チャイナドレスの三変化が、どれをとっても文句のない「麗人」ぶりでした。

最初に川島芳子として登場するのはスーツ姿。現れるときは、決まって一人というのがいいんです。「一人だけど、いいかい?」なんて言って、ル・パシフィークに入って来ます。宝塚時代とはメイクも着こなしも違うので、憂愁や色香をたたえた高畠華宵の描いた美少年にも見えてドキドキします。

このスーツ姿、どことなく花組二番手時代の『愛のプレリュード』のジョセフを思い起こさせるところも。「よせよ…」なんて言い出したり、ポケットから懐中時計を取り出したりするのじゃないかと想像してみるのはなかなか楽しいことです(笑)。

次が軍服です。

軍服はキライです。戦争にノーを唱える一人としては、芝居上の理由なしに、よきものとして軍服それ自体を愛でる気にはならない。とくに、ナチス親衛隊のこの時代の侵略戦争をしていた日本の軍服は肯定してはいけないという強い思いがあります。

しかし、それを忘れるわけではないのに、美しいだとかカッコいいだとか思ってしまう。川島芳子の軍服姿には、たやすく屈してしまう。とても苦しめられました。もはや、映画『愛の嵐』のシャーロット・ランプリングを見ているようでした(笑)。

芳子はどんな気持ちでこの軍服をまとったのだろうと、ふと思う。もちろん考えてみても分からないことだけれど、個人的な好みとしては、「こんな軍の服一つで、周囲の態度は変わるのだ」くらいの気持ちでいてくれたら素敵だと思う。

まだ幼い李香蘭(高嶋菜七/浜崎香帆)を芳子がエスコートする場面にはため息が出ました。「ヨコちゃん」「お兄さん」と呼び合い、同じ名前で、似た境遇の二人の間には、誰も入ってこられない親密な空気があって、川島芳子のもう一つの表情を見たようで。欲をいえば、いっそ「歌う川島芳子」を見たかったところだけど、それをさせなかったところに『魔都夜曲』らしさがあるのだと理解しました(宝塚歌劇なら、ほぼ100%歌わせるところ(笑))。

それでも、終盤のある場面で、その願いは叶えられるのですが…。あの場面、大好き。

最後の衣装がチャイナドレスです。

『魔都夜曲』の川島芳子のためだけに用意された、この深紅のドレスがとても艶やか。肩を出し、体型を強調したゴージャスなデザインでありながら、女性ではなく、「麗人」と呼べる人だけが醸し出せるすごみのある色香と、清朝王女の気品を漂わせるのはさすがとしかいえません。

エスコート役は、いかにも訳ありなル・パシフィークの支配人、新田日出夫。新田の、いや、さとしさんの素敵なこと。あの、誰も寄せ付けない謎の麗人オーラを振りまく川島芳子に、「あんた、きっと、笑ったほうが100倍素敵だ」なんて言ってしまったり(そのときは川島芳子と分かってはいなかったのだけど)、実際に笑顔にし、川島芳子と知ってなお正面から口説きにいけるほどの肝の座った男を演じられるのは、さとしさんだからでしょう(笑)。

(100倍とまではいわないけれど、チャイナドレス姿の壮さんがいっそう艶やかに見えるのはさとしさんのおかげです)

そして、新田日出夫の過去が気になる(笑)。キューブ様、どうか、壮さんの川島芳子で一作!

壮さんの芳子が、チャイナドレスを着て登場したら、ここから『魔都夜曲』の上海は、「楽園」に、「ラ・ラ・ランド上海」に変わります。これぞ、演劇の嘘。

どんな時代にあっても、ジャズクラブや劇場のような楽園をつくろうとしてくれる、たくさんの支配人たちにも感謝を。

 

 

五月の空は牛乳の色

人は「牛乳」で酔うこともあるのだと初めて知った。壮一帆さんのライヴ「SO BAR 2017」でのことだ。

貧乏性だからか、ライヴやコンサートに行くと、どんなに楽しくても、いま、大体このくらいの時間がたってるから、あとこのくらい? なんて具合に、無意識に体内時計を動かしてしまうのですが、久しぶりに時間という感覚を忘れて楽しんだ。

素敵なバンドがいて、お客さまはほぼ全員が壮さんのライヴを楽しみに来ている人ばかり。音はいいし、こじんまりとして落ち着いた空間は最高。お酒やオリジナルデザートなんかを片手に、ライヴが始まる。

舞台みたいに「幕があく」んじゃなくて、ステージに、バンドのメンバーが一人一人集まってきて、最後に壮さんが歩いてくる。それを合図に拍手が起こる。この始まりの雰囲気が最高。

そもそもこのライヴは、壮さんのファーストコンサート以来、バンマスで音楽監督、サウンドプロデュースをしてくれている立川さんのひと言から実現したという。

「壮さんさー、ライヴ合うんじゃない?」

そこから、じゃあ曲も作ろうよということになって、ミニアルバムも作ることになり、壮さんが作詞もすることになった。

そ、そんないきさつがあったとか。

立川智也さん、ありがとう。一ファンとしてお礼を言います。

こんなに壮さんらしいライヴになったのは、壮さんらしさをよく分かった上で、いーい塩梅にまとめてくれた立川さんやバンドの皆さんの、センスと音楽性と演奏技術によるところが大きいです。

壮一帆という女優(と、あえて言うね)のチャームとワイルドとメロウを引き出してもらい、「SO BAR」というレーベルをプロデュースしてもらった感じ。

おかげさまで、ちゃんと女優ライヴになっていました。「SO BAR 2017」。

クラシックやミュージカルのコンサートみたいに、かっちりとした楽曲とサウンドありきではなく、アーティストのライヴのように音楽中心でもない。壮一帆その人の魅力と個性で引っ張っていく。それがわたしが思う女優ライヴ。

さらに今回の場合は、ドラマチックコンサートやシャンソンのように演じもしない。
おなじみのバンドの音楽といっしょだからできあがる、リラックスした雰囲気のなかで、楽しみ、自由に、調和を保ちつつ、音楽が作られていく。

トークもとても自然。周りにいる一人一人に話しかけるような雰囲気がつくられるのは、ライヴハウスという親密な空間だからかな。客席から声がかかるわけではないけれど、反応を見ながら壮さんが自由に進めているのがわかる。ジャズだなあと思う。

東京でだったかな、ジャズが好きだと壮さんも言っていたけど、こういう自由な雰囲気が好きなんじゃないかな。

しあわせな時間だったなあ。しあわせすぎて、短いとも長いとも思わなかった。終わってからも、楽しかったとあう気持ちだけが残った。

シャンソンあり、『魔都夜曲』にちなんでの「蘇州夜曲」あり、攻め攻めノリノリなタカラヅカコーナーあり、もちろん今回のミニアルバムのコーナーもあり、ラストソングは花組時代のショー『ル パラディ』からのあの歌を…。アンコールは、立川さんおすすめのナンバー。これが、かわいいし楽しいし、すごーく壮一帆だった。

Twitterにも書いたけれど、オリジナルソングの数々がとても楽しい。おもに、子供時代のちっちゃいえりこちゃんがたくさん出てきて、いろんな情景が目に浮かぶ。壮さんの中にいる、ちっちゃいえりこちゃんが大好きだから、歌という形で出会えたのがとてもうれしい。

シャンソンはしっとりとした「枯葉」と、五月の海のようにさわやかな「ラ・メール」。このコントラストがとてもいい。

客席がざわっとしたのは「タカラヅカメドレー」。たぶん、壮さんが男役としてガンガンに攻めていた時代のナンバーばかり。バンドの演奏とあいまって、めちゃくちゃカッコいいメドレーになりました。二番手って、そういう時代なんだろうな。色でいうなら、赤と黒か。

「いま、男役スイッチ入れます!」てな感じではなく、自然でめちゃくちゃカッコいい。

えりこちゃんが「牛乳」でつくられたように、このマニッシュな雰囲気は、タカラヅカで壮一帆として生きてきた過程で身につけたた、もはや血肉。そんな誇りが感じられた。

まりゑちゃん作詞の大人っぽい「晩夏」は、最初は照れくさそうに披露してくれたけれど、回を重ねるごとに、映画的客観的な視点になっていっているみたい。こういう大人な愛の歌は、さらりと歌う方が壮さんらしい色気? のようなものが出てくる気がします。

もはや「色気がない」のが個性みたいになっているのが、個人的にはちょっと面白い。そこから壮さんらしい何かが出てくるような気はするんだけど、これからも動向を見守っていきたいと思う(笑)。

ラストソングの「エスポワール」は、当時から感じていたけれど、男役としてではなく、壮一帆として、いや、もしかしたら一人の人間としての希望と祈りの歌だったと思う。

東京の1stステージでは、「ディナーショーみたいにセットリストがないから、次に何が来るかわかんないでしょ? へへ」と、いたずらっぽく笑っていた壮さんを尊重し、少しずつ書いているセットリストとミニレビューは、ライヴが終わってからアップしようと思います。

(2ndステージでは「(初めての方は、まだ知らないよね?」とか、楽しそうに探りを入れてた ^^ )

それにしても壮さんは「白いもの」が好きだなあと思う。

白いTシャツが好みなのはタカラヅカ時代から。そのルーツは、『BANANAFISH』と リバー・フェニックスでしたよね。1stコンサートのアンコールでも、白いシャツにデニムで登場したのだった。『心中・恋の大和路』や最後のショーの衣装も白。慶次の白い花びら。雪ともご縁があったしね。

(そのくせ、サヨナラのときには白の会服はなし…(*^▽^*)  今回の牛乳Tシャツは、ある意味、遅れてきたサヨナラの会服?)

それはともかくとして、壮さんに白が似合うのは間違いない。牛乳Tシャツもすごく似合ってる。かわいい。

今回の「SO BAR」で振る舞われたのは、真っ白な牛乳でした。次にまた、こんなライヴがあるとしたら、そのときにはどんな色の飲み物が注がれるんでしょうね。

そんなことを楽しみに、ライヴの最後、名古屋に行ってまいります。ヤー!

ミルクなバーで会いましょう

牛乳っぽいイメージの画像がないか探したんだけど、これくらいしかなかった(笑)。

いよいよ今日からです。壮さんの、ジャズクラブでのライヴツアー「SO BAR」。

東京、大阪、名古屋の三都市をまわって、大人なジャズクラブのトリデンテ、コットンクラブ、Billboard、BlueNote も制覇してしまうという企画だ。

壮 一帆 ソロCDミニアルバム『SO BAR』の発売記念も兼ねたライヴツアー。

どんなアダルトな世界が展開されるのだろうと思っていたところに届いた曲目リストにまた驚く。いや、だって。こんなタイトルなんですよ。

 

 『SO BAR』

「月曜日 」(作詞/壮一帆 作曲/立川智也)

「ひらのくん」 (作詞/壮一帆 作曲/大坪正)

「牛乳」 (作詞/壮一帆 作曲/草間信一)

「晩夏」 (作詞/まりゑ 作曲/立川智也)

「ある夢」 (作詞/壮一帆 作曲/武藤良明)

「かけがえのないこのとき」 (作詞/中村暁 作曲/太田健)

【発売日】 2017年5月16日(火) 【価 格】 2,800円(税抜)

 

「牛乳」?

大人なジャズクラブで?  夜のジャズバーで?

まあ、わたしは好きです。こういうオフビートな? はずし方。
PUFFY的、奥田民生的、森高千里的、小泉今日子的、阪田寛夫的、みんなのうた的な感性を感じて、盛り上がってくる。

確かに、ジャズクラブだからって、何もタイトなドレス着て色っぽく歌うことはないわけで(笑)。

牛乳が似合う、都会の夜のバータイム。すてきじゃない?

不安な部分はないではないけど、壮さんのこういう、空気を読まずに、流行やみんながとーぜんと思っているところを外してくるところがとっても好きなので。もしかしたら、史上最強にすこやか、さわやかなバータイムになったりしてしまうかもしれないけれど、それはそれで面白いような(笑)。

ちなみに、スカイツリーのソラマチタウンで行われたトークショーで、アルバムについて少し話してくれました。

 

「牛乳」

小さいころ食の細かった壮さん。牛乳で育ったようなものだとか。そんなことを歌詞にしたそうです。

「月曜日」

これから1週間が始まる。仕事がイヤだなあと思ったら、もう休んじゃいなよ、みたいな歌。

「ひらのくん」

小さい頃の思い出を歌にした…。だったかな。

 

肝心なところは隠して、ざっくり解説しているものと思われますが、まったく想像つきません。日常スケッチというか、エッセイみたいなことを歌でやろうという試みなのか、あまり考えていないのか(笑)。

考えていないのかもしれない。壮さん、トークショーでも話してました。「これがやれたいっていうものはなくて、なんでもやってみたい」って。

壮さんはアーティスト志向なタイプじゃないのかもしれない。役者さんにはよく、そういう方がいらっしゃる。自分のグラスを本当に、きれーいな透明に、空っぽにすることができる人たち。うまく説明はできないんだけど、そういう役者さんが好きです。

さしずめ、今回の壮さんのグラスに注がれるのは「牛乳」なのだろう。

何はともあれ、もうすぐ始まります。

「SO BAR 2017」。

あ、「ソーバー」って、「あなたのそばで歌いますよ」という意味もこめられていたりするのかな。ないか。

牛乳というか、ミルクというと、フリッパーズ・ギターの「コーヒーミルククレイジー」や、オザケンの「甘い甘いミルク&ハニー」というフレーズを思い出す ^^

あとは、中嶋みゆきの「ミルク32」。音楽番組の「カバーズ」だったかで、満島ひかりちゃんが歌っていたのが、もうすごーくすてきだった。壮さんにもいつか、こんな歌を歌ってみたもらいたいと思いつつ。

もうすぐ始まります。


ぶったり、縛ったり――ドアの向こうは戦争*『扉の向こう側』(6)

 

『扉の向こう側』はタイムワープを扱ったお話だ。何かしらの条件が整うと、ホテルのあるドアから過去に戻ってしまうのだけれど、SFではないので、この不思議な現象については、誰も解明しようとする人がいない。

だから、そのあたりのツジツマを合わせようと思うと、あれ? いま、このフィービーはこの時代には本当には存在していないのよね?  なんでホテルの警備員は作動しないの? ジュリアンが移動できるのはなぜ? 等々の疑問が浮き上がってくる。説明されないことがとても多いのだ。

こうしたSF的な疑問に対するアフタートークでのイチロさんの対応がすてきだった。

「いろいろ分からないところがあるとは思うんですけど、なんとなく分かればいいんです」とかなんとか(笑)。

そのひと言で、客席数にいたみんなが、SFの呪縛から解き放たれたのです(!)。

謎はある(笑)。でも、問題にすべきはそこじゃない。イチロさんはそこにちゃんと気づいていたのだ。恐らくは無意識に。

あれは、リアル・ルエラでしたね。すべてをよい方向に向けて一つに束ねることのできる人。しかも、それをふわりとやってのけるのがイチロさんのスゴさなのだ。

さて、劇中でルエラが言うように、タイムマシンはどこにもないわけだけれど、ざっくりと考えて、タイムワープするのに必要なものはというと…。その部屋のお客さまであること、暗闇、みんなが眠っている真夜中、誰かが明かりのスイッチを切る、闇を知っている者、あるいは闇を恐れない者? 扉の向こう側へ行こうとする気持ち?

闇と暴力は、この作品のサブテーマになっていると思う。いや、外側をくるんでいるのかな。

お芝居は暗闇から始まった。ロンドンの五つ星ホテルのスイート。暗闇に銃撃戦の音が鳴り響いている。今から20年後の1936年にも、戦争はなくなっていないどころか悪化している。ビッグ・ベンも破壊されてしまった。ホテルの外は戦争。ロンドンの市街地では、戦闘が日常のように繰り広げられているのだ。

共感したのは、作者であるアラン・エイクボーンが、厭世的、冷笑的に世の中を見ているわけではないところ。観客を深刻にさせたり、思考を奪ってしまうのではなくて、あたたかく冷静に、考えたり放心する余地を与えてくれるのだ。わたしの場合は――、たとえどんな絶望的な状況にいたとしても、一人一人が、少しでも「いまの状況」を変えよう、「目の前にいる人」に手を差しのべようとすることが大事――、そんなメッセージを受けとめたけど、ちょっと国語の教科書っぽいかもしれない。観る人によっていろいろだろう。この余白が心地よい。

過去に戻ったことで、全員の運命が変わっているというラストも好きだ。

映画だったら、省略して、一気に映像で見せるところを、リースとフィービーの会話で、ゆっくりゆっくり、明かされていくのだ。笑ったりせつなくなったりしながら、終わろうとしている芝居の最後のときを観客は楽しむ。この時間のしあわせなことといったら。とてもとても演劇的なひとときなのだ。

フィービーは、スペシャルなお仕事をやめて、ロバートと子供たちがいる家庭を持っているようだ。

闇の世界の実力者で、多くの人を不幸にし、戦争にも加担していたリースは、戦争の調停役をつとめるほどの文化人になっている。本当に、フィービーがいうように、人間なんてちょっとしたことで変わっちゃうものなのだ。

ジェシカはリースと離婚して、ちゃっかり伯爵夫人に。

誠実なホテル付きのガードマン、ハロルドは、お客さま第一主義で、ホテルそのものでもあり、世間の代表みたいな存在。どんな時代でも、カメレオンみたいに生きていける人。毒にもならないけど(笑)、こういう人がいてくれるから笑いが生まれ、社会は回っている。夢が実現して本当によかった。

チクリとした痛みを感じるのは、20年後の世界にルエラがいないことだ。

ルエラは、愛し、愛されて生きた。自分にできることを懸命にして、人と人とをとりなして、この世を立ち去った。そこにいないことがとても寂しく、ルエラがそこにいないから、今の時間がとてもいとおしいものに思える。

わたしたちは誰もが生かされている。それを教えてくれるのは、この世界を去っていく人たちだけなのだ。

ジュリアンの死は、ルエラの死とは対象的だった。

多くの人の運命を変えてしまったジュリアンは、もつれた糸を元に戻すために死んでいった。

たとえどんな理由があったとしても、人の命は奪ってはならないし、誰かの死を死でもって償えるものではないけれど、あれは「事故死」なのだ。それともジュリアンの人生にも、運命を変えてくれる訪問者が現れるだろうか。

あるいはジュリアンは、暴力の象徴なのかもしれない。ホテルの壁についた黒いしみ、銃弾の跡のような。

フィービーが痛みや暴力を恐れていたのがたまらなかった。恐れるがゆえに、娼婦の中でもSMの女王というジャンルを選んだのかもしれない。フィービーがその仕事を「今は流行遅れ」だというのも、チクリと刺さった。20年後の近未来には、暴力はもっと生活の中に入り込んでいる。わざわざ暴力のプレイをしようとするなんて、リースみたいな金持ちのノスタルジー野郎くらいなものなのだ。

ルエラから、SMの女王のことを「どんな仕事? 」「楽しいの? 」と聞かれ、「ぶったり、縛ったり」と、おどけてポーズを取ってみせるフィービーがかわいくて、あの場面を見るのが好きだった。バブルの時代のことを大げさなコントにして見せる平野ノラさんのような感じかな(笑)。

変わってしまった世界で、フィービーが暴力から解放され、人としてきちんとした扱いを受けているのなら、それは本当にうれしいことだ。フィービーじゃないけけれど、女性が痛めつけられている場面を見るのはとてもつらい。これまで女性たちが辿ってきた悲しい過去を想像させるから。

ホテルの扉の向こうでは、戦争はまだ続いている。それでもフィービーは“スイート”ルームを後にする。自分で部屋の明かりを消して…。

冒頭にも書いたけれど、ラストシーンに希望が感じられるのが本当にすてきなことだ。みんなが運命を変えたことが、希望なのだ。リースみたいに、戦争へと導く側だった人物が、調停役になっていることだって起こり得るのだ。

『扉の向こう側』全体に流れている絶望と希望のこの絶妙なバランスは、小沢健二が今年のツアーでも歌った「ホテルと嵐」(『球体の奏でる音楽』)という曲にも通ずるところがあると思った。

歌詞は、読み方によっては戦争を歌っているように解釈できるのだけれど、とても明るくてテンポがいい曲がその絶望を包んでいる。世界は絶望的だけれど、最後には希望が残るとでもいうように。

やがて誰の体も吹っとばすような嵐になったら
踊りながらこのベッドの先まで飛んで行くだけ

届かない魔法! 壁に焦げついた黒い花
誰もいないベランダ

「ホテルと嵐」より

「生きていること」に乾杯*『扉の向こう側』(5)

デヴィッド・ボウイが死んだ。ヨハン・クライフが死んだ。ジャック・リヴェットがキアロスタミがプリンスが…。今年、2016年は、たくさんの人が死んでしまった。

「死」をテーマにした舞台や映画を多く観ていることや、政治によって国が死に向かっていることも含めて、2016年は「死の年」だと個人的には思っている。

BBCのコラムには、1960年代以降、いわゆる「有名人」が増えているのが大きいのではないかと書かれていた。

BBC NEWS「なぜ2016年に有名人が次々と亡くなるのか」

なるほど、そうなのかもしれない。長く生きるほど、心を寄せる人だって増えていくわけだし。

でも、だとしても、信頼している人を失ってしまうことは、とても堪えることだ。その悲しみはどうしようもない。

だから、なんとかバランスを取ろうとするのだろうか。「死」の世界にどっぷりハマってしまいそうななか、「生」のほうへ引き戻してくれるものにも出合った。

壮一帆さんが出演した『エドウィン・ドルードの謎』がそうだった。デヴィッド・ルヴォーが演出した『ETERNAL CHIKAMATSU』、小沢健二のライヴツアー『魔法的』もそうだった。そして、『扉の向こう側』も、「生」についての作品だった。

偶然だと思うけれど、2016年の壮一帆さんは、結果として「生きる」というテーマに取り組んだ年になったと思う。

『エドウィン・ドルードの謎』では、早々に殺されたと見せかけて、「みんな、僕は生きてるよ!」と舞台に登場した。「生きる それは勝ち負けじゃない。負けそうだったら逃げろ」と高らかに歌い上げた。

運命のメモはいう
諦めずに生き抜こう
とにかく死ぬまでは

目を開いて
前を向いて
運命のメモを見て
生きよう

『扉の向こう側』でも殺されそうになった。でも、ルエラとジェシカという素敵な女性二人と力を合わせて、自分の運命を変えてしまった。それまでは持てなかった「家族のアルバム」を手にしたのだ。

死の淵から這い上がった女三人が、「生きていることに」乾杯をする場面は素晴らしかった。心から拍手を送った。

そういえば壮さんは、タカラヅカ時代にも、「生きる」ことについての歌をたくさん歌ってきたのだった。

『扉の向こう側』のフィービーを見ながら、そんな歌が思い出された。例えば『相棒』で歌った「貴き命のバラード」。

人は人に傷つけられて
人によって癒される
違うようで同じ命
同じ重さの命

『扉の向こう側』では、いろんなことに気づかされたけれど、巡り合った人によって、人はこんなにも変わるのだということも、その一つだった。そして、なんとしても「生きなければ」ということも。

「生きなければ分からないことがこの世には多すぎる」

座右の銘にしたいくらい好きなこの言葉は、宝塚歌劇の演出家木村信司が、壮一帆主演の『オグリ!―小栗判官物語』のために書いた主題歌「遙かなる呼び声」からのフレーズだ。

18歳で早くも学び尽くしてしまい、ありのままに生きている文武両道にして美丈夫のオグリが(幼名は、ありの実からとって有若。ありの実とは梨のこと)、「しかし、生きなければ学べないことがまだある」と何処かから自分を呼ぶ声がすると歌う。

ありのままに生きているオグリは、妻としてよこされる女が誰一人気に入らず、難癖をつけては、72人も里へ返してしまう。やっと巡り合った妻は、深泥池の大蛇で、異形の者とちぎってしまったと噂になり、京から常陸へ追放される。やっと、照手という妻に出会うが、殺され、餓鬼阿弥になったりしながらも、またこの世に復活し、最後は生きたまま神になるとてしまうという破天荒な説経節だった(日本のドン・ジュアンともいえるかな)。

学ぶべきものはなくなった
文字からも学問からも
得るべきものはすでにない
生きなければわからないことが
この世には多すぎる

ここを離れてどこかへゆけと
吹く風の音が私を誘う
恐れるものは何一つない
それがお前と私に告げる

なんだろう。壮さんの中には、「生」を感じさせ、信じさせてくれる、ゆるぎない何かがあるみたいなのだ。そんなものに、無意識のうちに誘われているのかな。わたしが勝手に求めてしまっているだけかもしれないけれど。

オザケンもわたしにとってそんな人だということが、今年のライブツアーでよくわかった。「魔法的」は、ひと言でいうなら、「ちゃんと生きること」を教えられたツアーだったのだ。

小沢くんは、小澤俊夫さんと小沢牧子さんという学者夫婦に育てられたのだけれれど、小沢家の家訓が素晴らしい。

「死ぬな」「捕まるな」「よく寝ろ」「からだから遠いものを食べろ」「足もとをしっかりしろ」の5つだったかな。「死ぬな」については、牧子さんがエッセイの中でこう書いている。

「死ぬな、は折にふれて言った。これだけは絶対に守ってらわなければ困るのだ。自分で死ぬのはもちろんのこと、病気でも、交通事故でも、地震でも、風でとんでくる看板、はては隕石に当たっても、とにかく死んではだめなのだ。生きていてくれなければ。生きてさえいれば、何とでもなる」

いいなあ。今からでもいいから、私もこんな家の子供になりたいよ(笑)。ルエラの子供になりたい。フィービーの子供になりたい。壮さんの子供になりたい。オザケンの子供になりたい。

足もとをしっかりとして、ちゃんと生きることって素敵なことだ。それにはまず、死なないこと!

「死」について考えることは、「生」について考えることでもある。

(『扉の向こう側』からは遠いような近いような)

 

 

 

 

チャーミングなひとたち*『扉の向こう側』(4)

※写真はテキストに関係ありません(雑誌『@Premium』の表紙。『地下鉄のザジ』のスチール)

プレイハウスでの千穐楽を前に、戯曲(『アラン・エイクボーン戯曲集』所収)を読んでいてハッとした。壮一帆さんの演じたフィービー/プーペイの役名が、ずっとプーペイだったのだ。

SMの女王様としてホテルにやってくるときはもちろん、最後、もう一人のフィービーとして扉の向こう側に消えて行くまで、ずっと。

これは何を意味するんだろう。この扉の先にも、まだ扉があって、もう一つの現実が待っているということだろうか。ちょっと目を覚まさせられる、こんなところも英国芝居「らしさ」かもしれない。

でも、わたしが観ていた『扉の向こう側』は、やっぱり「フィービーのお話」だ。「プーペイのお話」じゃなくて。壮さんもそんなふうに演じていたのじゃないかな。もちろん想像だけど。

この戯曲、本当に上手く出来ているなあと感心するのだけど、実際の舞台を見て面白いと思うのは、必ずしも戯曲に書かれていることではない。フィービーの動きや仕草だったり、表情だったり、役者同士の作り出す空気だったり…、セリフに書かれていない部分が圧倒的に面白いのだ(ここがミュージカルと違うところかな)。

書かれたセリフを言いながら、書かれていないことを演じていく。吉原光夫さんがニコ生の放送で、「こんなにクリエイティブな現場になるとは思っていなかった」と言っていたけど(やっつけ仕事的に思っていたのかもしれない(笑))、本当にみんなで作り上げた作品だったのだと思う。

戯曲を読み解いていく面白さが詰まっていた。壮さんはタカラヅカ時代も、いわゆる「役作り」を得意とするタイプだったけれど、ここでの体験はそれとはまたちょっと違っていたんじゃないかと想像する。そして、それをとても楽しんだのではないかと。

そのことは、ほかならぬ「舞台」に現れていたと思う。壮さんのフィービーは、いつも違うフィービーだった(ときにはプーペイだったのかも)。

壮さんだけではない。ルエラ(一路真輝)はいつも、驚くほど新鮮に誰かの言葉や状況に素直に反応していた。リース(吉原光夫)も違ったなあ。食えないじいさんだったり、かわいいじいさんだったりしたけど、いいパパになったリースは同じ人が演じているなんて思えなかったくらい包容力があった。ジュリアン(岸祐二)は震え上がるほどの悪役だったし、死体役も、死に方も岸さんだからここまでできたんだろうとうならせる素晴らしい出来。ジェシカ(紺野まひる)は、なんといってもジュリアンの母親を演じる場面が大好きで、ハロルド(泉見洋平)との芝居が妙に逢っていて楽しかった。ハロルドって、本当にお客様第一主義で、高級ホテルの裏側の部分を体現していて、ストレートプレイが初めてだなんて思えない安定感だった。

*     *     *

ここまで書いて、公開するより先に東京芸術劇場 プレイハウス千穐楽を迎えてしまったのだけど、今日の『扉の向こう側』が、「プーペイのお話」になっていて驚いてしまった。

正確に書くと、一幕の1936年のホテルではプーペイ、1916年ではフィービーで、ラストがすべて一体となった超フィービーといったところかな。わたしには、壮さんが客観性をもって演じているように映った。具体的には、どの場面でも、相手の言葉にリアクションをするのではなくて、相手がなぜそう言うかを理解した上で役としてリアクションしている感じ(あくまでも、わたしの印象)。

だからちょっと大人の味付けというか、一般の方が見ても分かりやすいようなプーペイであり、フィービーだったと思う。コメディ映画に登場する陽気な娼婦みたいな感じがよく出ていて、説得力があった。食えないじいさんなんかが思わず気を許して、いろいろ身の上話をしてしまうのは、大体がこういう、陽気で気のいい、おっかさん的な下世話なところのある女なのだ。

皆さんよく知っているとおり、壮さんは、セクシーなタイプでは全然ない(笑)。でも、不思議と今夜のプーペイは、モンローやブリジット・バルドーに通ずる、セクシーなかわいさがあった。あのブロンドのカツラもしみじみと似合うなあと見入ってしまった。それとも単純に、あのコスチュームにもやっとなじんできたとか?(笑)

かと思うと、ルエラとの場面では、ママのいうことを一生懸命に聞いてがんばる少女みたいで、それがまたせつなくてせつなくて(新聞の場面ではいつも、新聞の広告を見ては、架空の家族を想像していた小さなフィービーのことを想像してしまう…)。

最後のエピローグ。リースとフィービーの場面もとても沁みた。

未来的な? 古めかしい? 白のワンピースを着たフィービーが、家族のアルバムを抱きしめてホテルを後にするときの美しい身のこなし。きれいで思いやりのある言葉づかい。

不意に、あのスイートルームの扉はクラシックなエレベーター、フィービーはエレベーターガールのようにも見えてドキッとする。もしかしてフィービーって、未来から来た家族館のパビリオンガールか何かだったんだろうか。

いや、待って。そもそもこのお話は、リースの見た夢だったんじゃ? それとも、ジュリアンの読み聞かせ? だから「おやすみなさい」で終わるの? みんなが闇の中に消えていくの?

戯曲に書かれていないそんな想像まで始めてしまい、まだまだまとまりそうにない。ともかく今はこのひと言を、「おやすみなさい」を…。

あんたすごく悪い子なんだって?*『扉の向こう側』(3)

「あんた、すっごい悪い子なんだって? 駄目よ、隠したって。あんたはとっても悪い子。そうでしょ?」

「……すぐいい子にしてあげる。さあ、言われた通りにするの。このプーペイ様が叩き直してあげる」

登場して間もなく、プーペイはジュリアンにこう話す。

SM女王様としての、職業的な決まりのセリフなのだけれど、まさにこのセリフがこの物語の結末を示している。『扉の向こう側』は、悪い子のジュリアンが、女王様たちからお仕置きを食らうお話――寓話でもあるのだ。

話がちょっと込み入っているのは、その悪い男(名前は、ジュリアン・「グッドマン」)もまた、不幸な子供だったということだ。フィービーだけじゃない、ジュリアンもまた、不幸な子供だった。『扉の向こう側』は、二人の不幸な子供のお話だともいえる。フィービーとジュリアンの二人は、人から愛されること、人を愛すること、そして自分を愛することも教えてもらえなかった子供なのだ。

ジュリアンは、ミソジニア的な傾向を持つ大人になった。『赤と黒』のジュリアン・ソレルよろしく、とても野心的に、様々なことを学んでいったのだと思う。知惠とバイオレンスを駆使して、ビジネスの世界でのし上がってきた。リースのことは、父親のように、兄弟のように、自分のように愛していたのかもしれない。

フィービーは、大らかで快活だけれども、後天的ないくつかの出来事によって、傷つくことを恐れている。人から痛めつけられ、踏みにじられながら、なんとか踏ん張って生きてきたのだと思う。SMの女王様をやっているのは、傷つけられたくないという深層心理によるのかもしれない。

最初、ジュリアンとフィービーは兄妹だったという「タカラヅカ読み」をしてみた。ジュリアンとフィービーをアポロンとアルテミスに見立てて。『ライブ麦畑でつかまえて』のホールデンとフィービーをちょっとだけ意識して。

それもなかなかよかったのだけれど、何かが足りない気がしていて、そうだ、年齢的には父と娘じゃないか(そして母と息子でもある)と考えたら、それがピタリとハマった。

ジュリアンは母親を、フィービーはそれと知らずに父親を殺す。そして、ジュリアンはフィービーの罪を背負って、この世界から落ちていく。怪物のような親を闇に葬ることで、フィービーは初めて自分らしく生きていけるようになる。

フィービーは、ずっと求めていた家族を見つけ、ジュリアンも、フィービーを介して愛したリースと家族になる。いや、リースになったのかもしれない。そのリースだって、娘をうまく愛さなかったのが嘘みたいに、いま、こんなにも妻や娘を愛している。

『扉の向こう側』は、ジュリアンとフィービー、みんなが家族を見つける物語でもあるのだ。

家族は、血のつながりによってのみ作られるものではない。家族とは、自分で作り上げるもの。フィービー、ルエラ、ジェシカ。リース、ジュリアン、ハロルドも。多少込み入っているけれど(笑)、この6人は、家族なのだと思う。時代を超えたホテルという家に住む――。

すてきなのは、フィービーが最後に2036年の世界に戻ってきたときに、運命が変わっていること。そして、もっとすてきなのは、この瞬間のフィービーが、パラレルな世界を一つに束ねたような存在(「超フィービー」?)だということだ。

この魔法の時間に、こうだったかもしれないすべての自分を、すべての時代、世界で出会った人たちを、フィービーはすべて受け止めている。戯曲に書かれているのではない。フィービーを演じた壮一帆の演技が、そう語っていた。

「ありがとう」の言葉は、ルエラにだけ向けられたものではないと思う。ジュリアンに、リースに、ジェシカに、ハロルドに、そして過去の自分プーペイに。いま、生きてここにいる自分自身に向けられたものだ。

でも、この「ありがとう」は、「さようなら」を意味することでもあるから、観ている私たちは否応なしに、胸の奥をぎゅうっと締め付けられるようなる。でもそれは、幼い頃にお父さんやお母さんに抱きしめられたときの、甘く懐かしい気分にも似ていて、まもなく終わろうとしている「超フィービー」の時間を思って、泣きたい気持ちになりながら、そのお別れのときを迎える。

灯りを消して、扉の向こう側の世界へ。ほんの少しだけ名残惜しそうに、でも、迷いなく、フィービーは歩き出す――

……そんなふうに考えると、カーテンコールの後にサプライズで用意された、6人による「歌のプレゼント」はとってもいい。とてもとても心に響く。

壮一帆さんはこのおまけの時間を「皇室アルバム」風と表現して、あまりの壮さんらしさに笑ったけれど、わたしはやっぱり、どこかの誰かが言ったように「ファミリー・コンサート」でもあると思う。

この6人の家族写真が、ファミリー・アルバムの最後に収められるのは本当にうれしくすてきなことだ。