僧さんロスの日曜日*『Honganji リターンズ』

この夏後半の最大のイベント、『Honganji リターンズ』が終わりました。
壮さんも「舞台稽古からノンストップだったから充実している」と言っていたけど、本当に始まったと思ったら、あっという間に終わってしまって…。

すてきなカンパニーの皆さんがアップしてくださるツイートや舞台裏の写真を見ながら、「僧さんロス」の日曜日です。

顕如さま…。

自然に「さま」付けで呼んでしまうような、強さと慈愛が混在した「顕如」でした。

私は恥ずかしいくらいに日本の歴史にうとく、戦国時代も新撰組の時代も血なまぐさくて苦手だし、壮さんが「男性でも女性でもなく演じている」というようなことを言っていたのは知っていたのですが、顕如さんのこともざっくりとしか知らないままに初日の観劇を迎えてしまい、夏目雅子の三蔵法師のイメージに近かったこともあって、女性だとばかり思っていました。

まさか、史実では男性だとは思わなかった(笑)。ゲームのキャラなんかだと、けっこうマッチョな顕如さんがざくざく現れて、壮さんの顕如さまの美しさに、ほっと胸をなでおろしたりしていました(笑)。

そういえば、幕あいのお手洗いでこんな会話を耳にしたこともありました。

A「ねえねえ、あの三蔵法師みたいなきれいな人誰?」
B「ああ、あの人、タカラヅカのトップだった人みたいよ」
A「ああ、やっぱりねえ。すごく綺麗だった。顔なんか極小!」

ここまでしか聞けなかった(お行儀悪くてごめんなさい。ホントに聞こえてきたの)のですが、心のなかでもちろんガッツポーズ(笑)。

お顔の大きさだけではなく、セリフも動きも最小の部類でしたが、顕如は作品のテーマを体現するような役どころ。壮さんはそんな顕如を、セリフのない場面でも、信長と敵対する石山本願寺を束ねる顕如の大きさ、強さ、慈愛の心を表現していたと思います。

やっぱりタカラヅカ育ちなんですね。

『エドウィン・ドルードの謎』でも、中日劇場の舞台に立っているときがが、舞台の大きさといい劇場の持つ雰囲気といい、いちばんホーム感があって、自由に動けているように感じられたのですが、今度の明治座もそう。とても落ち着いて演じているように見えました。

この作品は、書かれていない部分を、中心にいる役者さんの持っているものや、キャストの方の小芝居やアクションで埋められることが期待されているというか、古いタカラヅカのオリジナル作品のような隙間が多かったのだけど、そういうのは壮さん、大得意だから。もう、ゆったり構えて観ていられました。

信長を演じた陣内孝則さん、平将門役の市川九團次さん、雑賀衆のリーダー孫一の諸星和己さんの三人が、それぞれのフィールドで極めてきた見せ方で圧倒していくようすを、本当にすごいなあと観ていたけど、私たちの壮一帆さんも負けてはいなかった。初演では水夏希さんが演じられ、わたしは未見ですが、あの顕如の神々しさは、男役を極めた役者だから出せるものだったと思います。

そうした存在感だけでなく、有無を言わせぬ美しさがまた、顕如の神々しさを引き立てていました。

閉じたまぶたと、数珠をからませた手、読経する低い声…!

タカラヅカ時代に演じた『スサノオ』の月読や、『オグリ!』の餓鬼阿弥を思い出したのだけど、この手の日本物の透明感のある役を演じたときの壮さんのハマり方って本当にスゴイと思います。

(どちらも木村信司先生ですね。外部で、壮さんに素敵な日本物ミュージカルをぜひ!)
そして、この作品の底に流れている「信じる力」「非戦」というテーマは、個人的にとても響いてきました。

戦国時代に、浄土真宗は石山本願寺を城のようにして、要塞都市を造っていて、そこを守るためには戦いも辞さなかったわけだけれど、信長に顕如だって民を苦しめているじゃないか、同じなんだよと言われ、考え始めるわけです。自分は、侵略や利害のために戦ってきたのではなく、守るために戦ってきたけれど、果たしてそれは正しかったのかと。守るための戦いというのが成立するのか。今までたくさんの犠牲者を出してしまったと…。

二幕の本願寺での場面は圧巻でした。

自分の心のなかの鬼に気づいたからこそ、のちに、執着していた石山本願寺を手放すこともできたのだし、本当の意味で、「人は皆平等です」と言えるようになったのかと。

一人の親としての思いが渦巻く中、信長の「石山本願寺領主、顕如さまのお帰りだ!」というひと言で、顕如となる瞬間。

エピローグも素晴らしかった。

本能寺で自害をした信長の元に、約束どおりに現れた顕如は、信長が握りしめていた剣を手から離させ、そっと下に置きます。タカラヅカの『NOBUNAGA』に敬意を表すならば、あの剣が「下天の夢」。それを手放した信長は、三郎としてこの世を去って行った。

顕如が亡くなったのは、信長の死後10年後だから(50歳だったそうです)、信じる心が見させた夢だったのかもしれません。

信じる力とは、戦いのための城を、剣を手放すこと? 戦わずに、花を胸に抱くこと?

顕如が抱えていた悩みは、戦争や核の保有が悪いことと理解しながらもやめられない、世界が抱えているものと同じ。顕如や信長は間違いに気づいたけれど、平将門だけは彷徨い続けるのです。この世から戦争がなくならない限り。

この作品を現代的にしていたのは、九團次さんの歌舞伎流アプローチによる平将門の呪怨だったと思います。九團次さんのパフォーマンスがあまりに素晴らしくて、歌舞伎で『エリザベート』とかできるんじゃないかなあなんて想像してしまい、なかなか楽しかったです。

初日に見たときには、ごく自然に女性に見えた壮さんの顕如。とてもやわらかく、女性的に見えた日もあったし、たおやかでりんとして見えた日もあったけれど、千穐楽には、もう女性だとも男性だとも思わず、ただただ、光にみちた仏像のような強くてやさしい方を眺めるばかりでした。

少し前に、禅のお坊さんとお話をする機会があり、キリスト教では、ジーザスだけが神だけれど、仏教では、一人一人がブッダになることを目指しているんですよと言われ、ハッとしたことを思い出しました。

舞台はフィクションだけれど、あの舞台で仏像を見ているようだと思ったのは間違いではなかったのかもしれません。あのときのわたしは、確かに信徒だったのだと思います。

信じる力が少しこわい(笑)。

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