「生きていること」に乾杯*『扉の向こう側』(5)

デヴィッド・ボウイが死んだ。ヨハン・クライフが死んだ。ジャック・リヴェットがキアロスタミがプリンスが…。今年、2016年は、たくさんの人が死んでしまった。

「死」をテーマにした舞台や映画を多く観ていることや、政治によって国が死に向かっていることも含めて、2016年は「死の年」だと個人的には思っている。

BBCのコラムには、1960年代以降、いわゆる「有名人」が増えているのが大きいのではないかと書かれていた。

BBC NEWS「なぜ2016年に有名人が次々と亡くなるのか」

なるほど、そうなのかもしれない。長く生きるほど、心を寄せる人だって増えていくわけだし。

でも、だとしても、信頼している人を失ってしまうことは、とても堪えることだ。その悲しみはどうしようもない。

だから、なんとかバランスを取ろうとするのだろうか。「死」の世界にどっぷりハマってしまいそうななか、「生」のほうへ引き戻してくれるものにも出合った。

壮一帆さんが出演した『エドウィン・ドルードの謎』がそうだった。デヴィッド・ルヴォーが演出した『ETERNAL CHIKAMATSU』、小沢健二のライヴツアー『魔法的』もそうだった。そして、『扉の向こう側』も、「生」についての作品だった。

偶然だと思うけれど、2016年の壮一帆さんは、結果として「生きる」というテーマに取り組んだ年になったと思う。

『エドウィン・ドルードの謎』では、早々に殺されたと見せかけて、「みんな、僕は生きてるよ!」と舞台に登場した。「生きる それは勝ち負けじゃない。負けそうだったら逃げろ」と高らかに歌い上げた。

運命のメモはいう
諦めずに生き抜こう
とにかく死ぬまでは

目を開いて
前を向いて
運命のメモを見て
生きよう

『扉の向こう側』でも殺されそうになった。でも、ルエラとジェシカという素敵な女性二人と力を合わせて、自分の運命を変えてしまった。それまでは持てなかった「家族のアルバム」を手にしたのだ。

死の淵から這い上がった女三人が、「生きていることに」乾杯をする場面は素晴らしかった。心から拍手を送った。

そういえば壮さんは、タカラヅカ時代にも、「生きる」ことについての歌をたくさん歌ってきたのだった。

『扉の向こう側』のフィービーを見ながら、そんな歌が思い出された。例えば『相棒』で歌った「貴き命のバラード」。

人は人に傷つけられて
人によって癒される
違うようで同じ命
同じ重さの命

『扉の向こう側』では、いろんなことに気づかされたけれど、巡り合った人によって、人はこんなにも変わるのだということも、その一つだった。そして、なんとしても「生きなければ」ということも。

「生きなければ分からないことがこの世には多すぎる」

座右の銘にしたいくらい好きなこの言葉は、宝塚歌劇の演出家木村信司が、壮一帆主演の『オグリ!―小栗判官物語』のために書いた主題歌「遙かなる呼び声」からのフレーズだ。

18歳で早くも学び尽くしてしまい、ありのままに生きている文武両道にして美丈夫のオグリが(幼名は、ありの実からとって有若。ありの実とは梨のこと)、「しかし、生きなければ学べないことがまだある」と何処かから自分を呼ぶ声がすると歌う。

ありのままに生きているオグリは、妻としてよこされる女が誰一人気に入らず、難癖をつけては、72人も里へ返してしまう。やっと巡り合った妻は、深泥池の大蛇で、異形の者とちぎってしまったと噂になり、京から常陸へ追放される。やっと、照手という妻に出会うが、殺され、餓鬼阿弥になったりしながらも、またこの世に復活し、最後は生きたまま神になるとてしまうという破天荒な説経節だった(日本のドン・ジュアンともいえるかな)。

学ぶべきものはなくなった
文字からも学問からも
得るべきものはすでにない
生きなければわからないことが
この世には多すぎる

ここを離れてどこかへゆけと
吹く風の音が私を誘う
恐れるものは何一つない
それがお前と私に告げる

なんだろう。壮さんの中には、「生」を感じさせ、信じさせてくれる、ゆるぎない何かがあるみたいなのだ。そんなものに、無意識のうちに誘われているのかな。わたしが勝手に求めてしまっているだけかもしれないけれど。

オザケンもわたしにとってそんな人だということが、今年のライブツアーでよくわかった。「魔法的」は、ひと言でいうなら、「ちゃんと生きること」を教えられたツアーだったのだ。

小沢くんは、小澤俊夫さんと小沢牧子さんという学者夫婦に育てられたのだけれれど、小沢家の家訓が素晴らしい。

「死ぬな」「捕まるな」「よく寝ろ」「からだから遠いものを食べろ」「足もとをしっかりしろ」の5つだったかな。「死ぬな」については、牧子さんがエッセイの中でこう書いている。

「死ぬな、は折にふれて言った。これだけは絶対に守ってらわなければ困るのだ。自分で死ぬのはもちろんのこと、病気でも、交通事故でも、地震でも、風でとんでくる看板、はては隕石に当たっても、とにかく死んではだめなのだ。生きていてくれなければ。生きてさえいれば、何とでもなる」

いいなあ。今からでもいいから、私もこんな家の子供になりたいよ(笑)。ルエラの子供になりたい。フィービーの子供になりたい。壮さんの子供になりたい。オザケンの子供になりたい。

足もとをしっかりとして、ちゃんと生きることって素敵なことだ。それにはまず、死なないこと!

「死」について考えることは、「生」について考えることでもある。

(『扉の向こう側』からは遠いような近いような)

 

 

 

 

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