ぶったり、縛ったり――ドアの向こうは戦争*『扉の向こう側』(6)

 

『扉の向こう側』はタイムワープを扱ったお話だ。何かしらの条件が整うと、ホテルのあるドアから過去に戻ってしまうのだけれど、SFではないので、この不思議な現象については、誰も解明しようとする人がいない。

だから、そのあたりのツジツマを合わせようと思うと、あれ? いま、このフィービーはこの時代には本当には存在していないのよね?  なんでホテルの警備員は作動しないの? ジュリアンが移動できるのはなぜ? 等々の疑問が浮き上がってくる。説明されないことがとても多いのだ。

こうしたSF的な疑問に対するアフタートークでのイチロさんの対応がすてきだった。

「いろいろ分からないところがあるとは思うんですけど、なんとなく分かればいいんです」とかなんとか(笑)。

そのひと言で、客席数にいたみんなが、SFの呪縛から解き放たれたのです(!)。

謎はある(笑)。でも、問題にすべきはそこじゃない。イチロさんはそこにちゃんと気づいていたのだ。恐らくは無意識に。

あれは、リアル・ルエラでしたね。すべてをよい方向に向けて一つに束ねることのできる人。しかも、それをふわりとやってのけるのがイチロさんのスゴさなのだ。

さて、劇中でルエラが言うように、タイムマシンはどこにもないわけだけれど、ざっくりと考えて、タイムワープするのに必要なものはというと…。その部屋のお客さまであること、暗闇、みんなが眠っている真夜中、誰かが明かりのスイッチを切る、闇を知っている者、あるいは闇を恐れない者? 扉の向こう側へ行こうとする気持ち?

闇と暴力は、この作品のサブテーマになっていると思う。いや、外側をくるんでいるのかな。

お芝居は暗闇から始まった。ロンドンの五つ星ホテルのスイート。暗闇に銃撃戦の音が鳴り響いている。今から20年後の1936年にも、戦争はなくなっていないどころか悪化している。ビッグ・ベンも破壊されてしまった。ホテルの外は戦争。ロンドンの市街地では、戦闘が日常のように繰り広げられているのだ。

共感したのは、作者であるアラン・エイクボーンが、厭世的、冷笑的に世の中を見ているわけではないところ。観客を深刻にさせたり、思考を奪ってしまうのではなくて、あたたかく冷静に、考えたり放心する余地を与えてくれるのだ。わたしの場合は――、たとえどんな絶望的な状況にいたとしても、一人一人が、少しでも「いまの状況」を変えよう、「目の前にいる人」に手を差しのべようとすることが大事――、そんなメッセージを受けとめたけど、ちょっと国語の教科書っぽいかもしれない。観る人によっていろいろだろう。この余白が心地よい。

過去に戻ったことで、全員の運命が変わっているというラストも好きだ。

映画だったら、省略して、一気に映像で見せるところを、リースとフィービーの会話で、ゆっくりゆっくり、明かされていくのだ。笑ったりせつなくなったりしながら、終わろうとしている芝居の最後のときを観客は楽しむ。この時間のしあわせなことといったら。とてもとても演劇的なひとときなのだ。

フィービーは、スペシャルなお仕事をやめて、ロバートと子供たちがいる家庭を持っているようだ。

闇の世界の実力者で、多くの人を不幸にし、戦争にも加担していたリースは、戦争の調停役をつとめるほどの文化人になっている。本当に、フィービーがいうように、人間なんてちょっとしたことで変わっちゃうものなのだ。

ジェシカはリースと離婚して、ちゃっかり伯爵夫人に。

誠実なホテル付きのガードマン、ハロルドは、お客さま第一主義で、ホテルそのものでもあり、世間の代表みたいな存在。どんな時代でも、カメレオンみたいに生きていける人。毒にもならないけど(笑)、こういう人がいてくれるから笑いが生まれ、社会は回っている。夢が実現して本当によかった。

チクリとした痛みを感じるのは、20年後の世界にルエラがいないことだ。

ルエラは、愛し、愛されて生きた。自分にできることを懸命にして、人と人とをとりなして、この世を立ち去った。そこにいないことがとても寂しく、ルエラがそこにいないから、今の時間がとてもいとおしいものに思える。

わたしたちは誰もが生かされている。それを教えてくれるのは、この世界を去っていく人たちだけなのだ。

ジュリアンの死は、ルエラの死とは対象的だった。

多くの人の運命を変えてしまったジュリアンは、もつれた糸を元に戻すために死んでいった。

たとえどんな理由があったとしても、人の命は奪ってはならないし、誰かの死を死でもって償えるものではないけれど、あれは「事故死」なのだ。それともジュリアンの人生にも、運命を変えてくれる訪問者が現れるだろうか。

あるいはジュリアンは、暴力の象徴なのかもしれない。ホテルの壁についた黒いしみ、銃弾の跡のような。

フィービーが痛みや暴力を恐れていたのがたまらなかった。恐れるがゆえに、娼婦の中でもSMの女王というジャンルを選んだのかもしれない。フィービーがその仕事を「今は流行遅れ」だというのも、チクリと刺さった。20年後の近未来には、暴力はもっと生活の中に入り込んでいる。わざわざ暴力のプレイをしようとするなんて、リースみたいな金持ちのノスタルジー野郎くらいなものなのだ。

ルエラから、SMの女王のことを「どんな仕事? 」「楽しいの? 」と聞かれ、「ぶったり、縛ったり」と、おどけてポーズを取ってみせるフィービーがかわいくて、あの場面を見るのが好きだった。バブルの時代のことを大げさなコントにして見せる平野ノラさんのような感じかな(笑)。

変わってしまった世界で、フィービーが暴力から解放され、人としてきちんとした扱いを受けているのなら、それは本当にうれしいことだ。フィービーじゃないけけれど、女性が痛めつけられている場面を見るのはとてもつらい。これまで女性たちが辿ってきた悲しい過去を想像させるから。

ホテルの扉の向こうでは、戦争はまだ続いている。それでもフィービーは“スイート”ルームを後にする。自分で部屋の明かりを消して…。

冒頭にも書いたけれど、ラストシーンに希望が感じられるのが本当にすてきなことだ。みんなが運命を変えたことが、希望なのだ。リースみたいに、戦争へと導く側だった人物が、調停役になっていることだって起こり得るのだ。

『扉の向こう側』全体に流れている絶望と希望のこの絶妙なバランスは、小沢健二が今年のツアーでも歌った「ホテルと嵐」(『球体の奏でる音楽』)という曲にも通ずるところがあると思った。

歌詞は、読み方によっては戦争を歌っているように解釈できるのだけれど、とても明るくてテンポがいい曲がその絶望を包んでいる。世界は絶望的だけれど、最後には希望が残るとでもいうように。

やがて誰の体も吹っとばすような嵐になったら
踊りながらこのベッドの先まで飛んで行くだけ

届かない魔法! 壁に焦げついた黒い花
誰もいないベランダ

「ホテルと嵐」より

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